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名古屋高等裁判所金沢支部 昭和60年(ラ)27号 決定

抗告人 亡高田広明承継人

遺言執行者 岩田正行

相手方 高田芳晃

主文

本件抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人の負担とする。

理由

一  申立人は「原審判を取消し、本件を金沢家庭裁判所に差戻す」との裁判を求め、抗告の理由として別紙「報告書」記載のとおり主張した。

二  当裁判所の判断

本件記録及び当審における審尋の結果を総合すると次の事実が認められる。

1  高田広明(明治39年6月28日生)は、昭和10年2月13日先妻久子と婚姻し、同女との間に昭和11年長女安子(昭和19年8月22日死亡)、昭和13年11月6日二女元子、昭和17年1月1日長男相手方、昭和24年7月21日三女房栄をもうけた。また、昭和23年頃には野田トキ子を妾として囲い、同女との間に昭和24年非嫡出子野田貴栄をもうけ、昭和42年5月29日同女を認知した。広明は、地方公務員としての勤務を経て昭和20年繊維会社に入社し、昭和45年取締役総務部長を最後に同社を退職して、関連会社に再就職したが、同社も昭和52年には退職した。

2  相手方は広明とその妻久子との間の長男で広明の遺留分を有する推定相続人である。相手方は県立工業高校を卒業し、昭和39年10月から会社員として就職し、現在に至つているが、昭和45年4月6日北島美子と婚姻し、肩書地の住居でその後も従前どおり広明と同居を続け、美子との間に昭和48年1月31日長男浩、昭和52年4月29日二男康二が出生した。

3  広明の妻久子は昭和47年大腿骨を骨折して入院し手術を受けたが、右入院中脳血栓を併発して左半身不随、言語障害の状態となり、昭和48年秋からは自宅で療養するようになつた。このため家事の中心は相手方の妻美子に移り、寝たきりとなつた久子の看病は主として美子と房栄が、昭和50年に房栄が他家へ嫁いだ後は専ら美子が担当した。

美子が家計を握るようになつた後、広明は久子と二人分の食費として月額6万円を美子に渡すようになつたものの、久子の看病は殆どせず、依然としてトキ子との関係を続けていた。なお広明は昭和54年秋身体の不調を訴え国立病院に入院し、胃の摘出手術を受けた。

そして昭和55年2月27日久子は死亡したがその後、広明は月額3万円を食費として美子に渡すようになった。

4  広明は昭和56年1月20日頃相手方とその妻美子に対し再婚したいと言い出し、相手方夫婦は久子の一周忌も済んでいないし、広明が高齢で胃の摘出手術も受け病弱であること、更に妾を囲つていて、広明の女性関係に悩まされてきたことから、これに反対し、他家に嫁いだ二女元子、三女房栄も同様に反対した。しかし広明はこれらの反対を押し切り同年6月28日染色工芸作家塩田加夜子との再婚に踏み切り、結婚式をあげそれ以来広明・加夜子は肩書地の住居の一階を使用し、相手方夫婦は従来どおり二階を使用して同居するようになつた。

それまで広明と相手方夫婦間に特段の問題は生じていなかつたものであるが、加夜子の同居後、それまで家族共用の場であり、仏壇が置かれていて相手方らが自由に出入りし、亡久子の供養をすることができた一階座敷を、加夜子が自分の仕事場として使用するようになり、相手方らの出入りを禁止するなど、広明の妻としての立場を強調するようになつて、徐々に相手方夫婦との間で感情的な対立を生じるようになつた。

5  昭和56年9月住居の増改築工事が終了した際、工事のため一階座敷横の廊下に置かれていた相手方らの荷物を、加夜子が来客があるとの理由で直ちに二階へ上げるよう要求したため、美子と口論になつたが、美子が応じないので結局加夜子が来客前に荷物を二階に上げざるを得なかつた。

6  同年12月相手方夫婦が長男浩(当時8歳)を残して外出し、浩が食事をせずに相手方夫婦の帰宅を待つていたことがあり、加夜子が美子に注意したところ、美子が、子供が食べずに両親の帰りを待つと言つているのだから子供の自由にさせておいてほしいと述べ、加夜子に反発したことがあつた。

7  昭和57年8月の旧盆に三女房栄が広明宅に帰省した際、加夜子が房栄の子供らに西瓜を食べさせようとしたところ、房栄がそれは古いから別の新しい西瓜を切つてやろうといつて包丁を持つたため、加夜子が腹を立て口論となつたが、丁度その頃帰宅した相手方が房栄から事情を聴き包丁を受取り、西瓜は自分が切つてやるといつて加夜子のいる台所へ入つて行つたことから、加夜子がその姿を見て驚き大声を出し、大騒ぎとなつた。加夜子はそのようなことがあつた後嫁入りの際持参した道具のうち箪笥2本を除いて殆どを持つて家を出て行つた。

8  その後広明は1年余り毎日のように加夜子のもとへ出向き夕食をすませて帰宅していたが、昭和58年8月3日加夜子は広明の看病を理由に広明方に帰つてきた。同月4日美子が押入から広明の布団のシーツを出そうとしたところ、勝手に押入を開けるなと言つて加夜子が後ろからうちわではたいたので、美子がこれを払いのけたところ、美子の肘が加夜子の胸に当り、もみ合いとなつた。そこで加夜子は大声で広明に救いを求めた。その声を聞いて相手方もその場に行つたところ、広明が相手方の方に寄つてきたため相手方が広明ともみ合い、その際の暴行によつて広明は全治5日間、加夜子は全治1週間の打撲傷を負つた。

9  広明は家屋の増改築工事終了後、工事費支払のため、相手方と協議のうえ、広明所有の居住建物の持分3分の1を相手方に贈与し、相手方が社団法人○○○○○○○○○協会から400万円を借入れることとした。相手方は月賦で右金員を返済していたが、昭和57年6月頃美子の実家から無利子で400万円を借り、右借入金を一括弁済し、借入の際設定した抵当権設定登記も抹消した。広明は右事実を昭和58年10月頃知り、相手方に対し、右持分の贈与は借入のための便宜的処置であり、借入金を返済したのなら元に戻すべきであるとし、400万円の返済と引き換えに家屋の持分3分の1の所有名義を広明に返還するよう要求したが、相手方はこれを拒否した。そこで、広明は昭和59年4月25日相手方を被告として、右贈与の意思表示が虚偽表示であるとして所有権移転登記抹消及び建物明渡を求める訴えを金沢地方裁判所に提起(同裁判所昭和59年(ワ)第173号事件)した。

このような経過で広明と相手方は同一の家屋に居住しているものの食事・家事も全く別で、家族らしい会話もなく著しく不和となり、広明は昭和59年12月25日原審に昭和56年6月以降の相手方の虐待、重大な侮辱及び非行を理由に、相手方が申立人の推定相続人であることを廃除する旨の審判申立に及んだが昭和60年9月24日申立却下(原審判)となり、これに対し広明は同年10月8日即時抗告(本件)した。

広明は昭和60年8月3日から入院し、同年11月22日加夜子の子である大野康治との間で養子縁組をしたが、同年12月13日本件抗告審の裁判を待たずに死亡した。広明は昭和59年9月20日作成の公正証書による遺言を残しており、右遺言には、広明所有及び権利に属する総財産を包括して加夜子に相続させ、相手方は常に広明に対し暴行を加え、侮辱する言動を発する等著しい非行に及ぶが故に相手方を相続から廃除する、遺言執行者として岩田正行を指定する旨の記載がある。そして右廃除事由としての暴行、侮辱は、本件申立にかかる相手方の虐待、重大な侮辱と同一の事由を指すものと考えられる。

以上の認定事実によると、本件は、廃除の請求をした被相続人が同事件係属中に死亡した場合に当ることが明らかであるところ、廃除は、被廃除者の相続人資格を失わしめ、また他の相続人の法定相続分に影響を与えるものであるから、廃除請求が一旦なされた後の手続進行は被相続人の生存を要件とするものとは解し難く、従つて、手続進行中に申立人である被相続人が死亡した場合は、家事審判規則15条の規定により、「申立の資格のある者」が同手続を受継することができると解される。そして、家庭裁判所が民法895条による仮の処分として遺産管理人を選任した場合は、同管理人をして右廃除請求事件を受継させるべきであるが、被相続人が生前に廃除の請求をしたうえ、更に遺言で同一事由により廃除の意思を表示し、遺言執行者を指定して遺産の管理・処分を委ねた場合は、改めて遺産管理人を選任する必要はなく、同遺言執行者が遺産の管理その他遺言の執行に必要な一切の行為をする権限ある者として、同手続を受継することができると解するのが相当である。この場合廃除請求事件自体が被相続人の生前において申立てられたものであることを理由に、民法895条による遺産管理人の選任を要するとしてみても、遺言執行者も遺産を管理する権限が与えられているから、権限が重複することになつて相当でなく、従つてかかる場合は、遺言による廃除請求事件ではないが、遺言執行者以外に手続を承継すべき者は考えられず、その者をもつて「申立の資格のある者」と解するよりほかなきものというべきである。

すると、本件抗告人の手続受継は適法であるから、以下本案につき判断するに、抗告人は、相手方が広明に対し虐待、重大な侮辱、著しい非行を行つた旨主張する。

しかし、虐待、侮辱、非行はいずれも被相続人との相続的協同関係を破壊する可能性を含む程度のものでなければならないと解すべきところ、右認定事実によれば、これに該当すると一応考えられる行為は昭和58年8月4日の暴行のみであつて、その余の抗告人が指摘する行為についてはいずれも双方に責任がある小規模紛争であつて右の程度に至つているものとは認め難い。相手方が家屋の持分返還要求に応じず、広明と民事上の抗争をしている点は、金銭問題であつて止むを得ないと解される。

そして、右暴行は、老人を対象に加えられた点からみれば悪質でその程度も軽微とはいい難いが、相手方としては父である広明に対し計画的に暴行に及んだものではなく、美子と加夜子の衝突に介入した結果の偶発的なものであるうえ、その遠因についても相手方のみに責任があるのではなく、広明側にもあるというべきである。即ち、広明は亡久子生存中妾を囲い非摘出子を生ませたうえ、亡久子の一周忌も済まないうちに加夜子と再婚したい旨言い出し、相手方らがこぞつて反対したにもかかわらず再婚したものであり、婚姻の自由があるとはいえ、広明の再婚は、相手方らとの同居を前提とするものである以上、相手方らの理解を求める誠意・努力に不足するところがあつたといわれてもやむを得ないというべきである。そして共同生活においても、永年同じ住居に居住し、事実上家計の中心となつていた相手方夫婦との融和を図るべきであるのに、広明はこれをなさず自己の立場を強調するのみで相手方夫婦を刺激し、また加夜子と相手方らとの確執を放置し、そのため両者の感情的対立が深められたと認められるのであり、相手方らにも反省すべき点は多々あるがその責任の一半は広明と加夜子の側にも存するというべきである。従つて、右暴行はそれ自体非難されるべきものではあるが、右事情を斟酌すれば、いまだ推定相続人廃除の原因に至つているとは認め難い。その他相手方において被相続人に対して虐待や重大な侮辱を加えたとか著しい非行があつたとは認められない。

よつて、本件申立は理由がないので却下すべきところ、右と同旨の原審判は相当であり、本件抗告は理由がないので棄却することとし、抗告費用の負担につき民訴法95条、89条を適用して主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 井上孝一 裁判官 紙浦健二 森高重久)

報告書

審判書の事実認定にはいくつかの事実誤認がありますので報告します。

1 まず申立の理由をさらに補足します。

(1) 申立人とその妻の結婚は、相手方らの反対を押し切って強引になされたと何度も調書で言っていますが、結婚式、披露宴に相手方らが出席。結婚後は同居して一つ家に住む相談のもとに台所や風呂場の改築、造築もなされたものであってみれば、それは裏切りの言葉で、親族の祝い酒の交換もあれば、何よりも結婚式の写真に皆が写っているのが合意の証明である。妻の持参した引出物も相手方に腕時計、その妻に絹着尺、子供らに文房具セット、親族には日傘と。それぞれから御礼の言葉も受けている。造改築の頭金80万円の用意を申立人の妻に用意させた事など相手方らは周知で、すべて親子相続の上でなされた。当初600万円の予算で計画したが相手方らが自分らの部屋も増してほしいと希望したので不足400万円を相手方の名儀を借りて借入れる事にしたが低当がなかったので、假に贈与の形をとり家の1/3を相手方の名儀にし、合意、共同責任のもとに金員を借り入れた。申立人がお金の用意が出来る迄暫く月々の返済をしていてほしいと、生活に響かぬよう考慮して拾余万円を与えもした。相手方名儀の借入金を早く工面して呉れと催促していた相手方が、申立人である親に無断で、先取りの拾余万円がなくなる頃、改めて400万円を相手方の妻の里親から借りて勝手に親の捺印もして低当をはずしていた。親の知らない所で第三者が解入してなされていた事が判明した時親である申立人が金400万円を積んで第三者へ返して来るよう言うのは当然で、約束通り1/3の家の権利を返すよう言った時は、相手方らは辯護士に相談しなければ印は押せないと強引に出た。親が子供からこの様に言われた時、親の知らない所で考策されていた事に立腹、それなら親の方から訴訟に持ち込むと言明し、今日の結果になった。1/3は自分のもの、造作に400万円出したのだと豪語し家に縄張りがないからと横暴に振舞うようになった。相手方らがプライバシーとして使用している部屋の面積だけでも1/3をはるかに越している。申立人の妻は遺留分の1/2をたてに出て行けと売り言葉云々とあるが妻は自分の家だという言葉を一度も出した事がない。相手方の妻が申立人の前ですら自分の家だと主張しているが妻はこの事もあり決して注意してこの言葉は発していない。常にこの家は申立人の家であり自分はその妻である事は言っている。親子相互、合意の上でなされた事を途中から変更して、他人と組んで親に背くとは、高田家の将来を相続してまかすには全く信頼出来ない危険性を痛感したものである。

(2) 調書では、双方対立の中で家族会議を開いたとありますが相手方が申立人の妻に包丁を持って迫るという事件があって妻は実家ではなく妹の家へ逃避したもので、会議はその翌日持たれています。相手方らはこの機会に申立人の妻を高田家から除籍しようと相談し根廻ししたもので、会議は終始このすすめであったが申立人には別れる意志など未塵もなかったので、申立人が子供らに慰謝料を妻に払って呉れなど言う筈がなく、これは相手方らの作り話しである。まして妻から慰謝料を請求された事実はありません。

包丁の騒動にしても東京の娘と申立人の妻が当事者であるのに調書はそれ以外の第三者から事情を聞いて作製されています。申立人も現場で一部始終見ていた一人で事実とは違います。常識で考えても当日、東京から来たばかりの客が、よその台所で西瓜がどこか包丁がどれか反動的に出せるものでしょうか?新鮮そのものの西瓜を古いなどと誰が言ったか?内心父の結婚に反感を持っていた娘の感情が露骨にその時出たもので、子供らに食べるナと取り上げれば泣いて騒ぐのは当然、叱るわめくの声に飛んで来たのが相手方でよく事情を聞きもせずただカッとなってこれまた“そんなもの食べるなわしが切ってやる”と西瓜を取り出し包丁を手にしたのが相手方で当事者の妻は大声出す必要もなくただア然としていただけで状況を冷静に受けとめ覚えています。当事者から事情を聞きもせずに認定するのは誤りです。

(3) 申立人が病気になった時、そのまま別居になっていた妻を看護に呼んで看てほしいと希望した。相手方らは泊らせてなるものかと必死である。それは病人の料理作りもさせまいと邪魔だてした事でも判るし、看護人のふとんを敷かせまいとして暴挙が傷害に迄発展したものである。日頃世話をやいた事のない相手方夫婦がその日に限って申立人の妻の手前見よがしの事をしてふとんを干したりシーツをかけようとしたりしたものである。相手方の妻が、申立人夫婦のプライバシーで日頃あける事を許してなかった押入をあけたので妻が注意した。家にいない者に何が判る!と押入をいじくり出したので妻は立って行き使っていた右手ウチワでどきなさいと制した。その時これ迄の不満が一時に高ぶったのでしょう、肘鉄をくらわす突きに突く。相手方も加わって腕を引張る等2人に力一杯やられている様を申立人が見て止めに入りました。胸に手が当ったとか、手が体に当たったなどで前者が胸に打僕1週間、後者の申立人が全治5日間のヒザの打僕、診断書もあります。当の本人が胸の軟骨がボキボキ音を立て、その場にうずくまって動けなくなったのですからその痛さを一番よく知っていますのに、この件にしても前者と後者が逆になって報告されていますし、本人には何の調べもなくして調書が書かれているのは不思議な位です。全く事実と違います。申立人は病気の弱い身体で止めに入っているのに血相変えて親に立ち向って来た馬鹿息子を見て、共に死のうかと思った位ですからその激しさをよく知っています。妻の方が後遺症がひどくて1年半左手の自由を失って仕事も出来ず、苦痛と不安に泣き乍ら収入面も断たれて筆舌に尽し難い苦労をかけました。一緒に染色の仕事をしていた妻の実子・大野康治にも多大の迷惑をかけた損害は大きいものです。

(4) さらに暴力、おどしを受けた事を追加します。

1 別居中の妻を用事で高田家へ呼んだ時、相手方はここはワシの家だ何しに来た出て行けと掃除機でおどしました。

2 申立人のすすめで妻が風呂を使っていた時外から湯の電源を切られて困りました。

3 客の茶を入れてもらっている時、これはワシの水道だと湧かした湯を捨てられました。

4 又もやここはワシの家だ、出て行けと箸立にあった箸やホーク、ナイフを鷲づかみにしてなぐられそうになりました。

(5) 亦、相手方の妻も、ここは私の家だ出て行けと両手で妻を突き飛ばし、それでも足りないと、思が切走って来て、どずいたので、タンスが倒れるのではないかと支えた位ひどく打ちのめされました。二度続けてです。

(6) 申立人の妻が理由あって二階へ上ったのに、後遺症で悩む痛い腕を、内出血したのですから相当な強さでした、つかんで階下へ降りろとわめかれました。本人はそれを馴でた位だと言いますが、医師に手当を受けています。何でなでられる必要がありましょう。ウソもいい所です。

(7) 所有権の問題でこぜり合いが絶えず、これ又怪我していた胸を両手でどずかれています。その時右腕も動かなくなって申立人が風呂を炊き少しでもと痛みを柔らげてやった事がありました。玄関の掃除の時でした。

2 次に裁判所の認定した事実が違いますので報告します。

(1) 申立人が胃の全摘出手術を受けて病弱だったと認めてありますが、レントゲンが証拠で当時から1/3は完全に残っていますし、最近のレントゲンも之を示しています。全摘出は間違いで、その頃申立人は食事を4回にわけてとっていただけで頗る健康を快復していました。全摘出がホントなら相手方らは病後の病人の食養生が大変ですのに、特別に何もしてもらっていません。頼んでおかゆを作ってもらう位のものでした。病弱の先妻の死後、不自由と嫁の冷遇から再婚を考え希望したが、一周忌をすませて結婚した事は皆の知る所です。妻は亡き実父と思って面倒見ましょうとやさしい気持ちで来て呉れました。同じ染色の道でしたので。

(2) 相手方夫婦は、申立人の妾問題で、その弱点ばかり強調していますが、女性問題で悩ます程、迷惑かけた事はなく、そのため不自由させた事も又この話を口に出したりした事もないのにこんな時ここぞとばかりに突いて来るのは明らかに親への反逆であると思います。若い時の自己の責任を、子供の認知、養育、就学、就職と相手方ら子供と同じように誠意をもって果したものであって、一泊の外泊をした事もなく知らずに近年迄来た娘があった位で、何ら迷惑をかけていません。今頃、子供らに指摘される事でなく、若しこれが恨みとなって一貫した反逆精神を相手方らが持っているとすれば、それは亡き母への同情と病弱なるが故に味方付けをして世話を要求していた先妻のあわれさであって、夫婦関では病身を気がねして許して虞れて、すべからく諒解のもとに認知その他の一切を運んで来ました。この件は今度の訴訟と関係ない事で相手方にこそ理解してもらいたい事でした。と申すのは申立人も幼少の頃認知されない私生子でした。高田家へ養子に入れた“栄”“さよ”なる夫婦は立派な考えとやさしい心の持主で申立人とその母親、その姉も共々に高田へ入籍して呉れました。何らこの屈辱なく育てられた御恩を思う時、高田家を立派に守らねばならぬ責任が申立人にあります。相手方はその子であれば父を理解し、不遇の妹を理解せねばならぬのに、妾問題を強調して親を公的な場所で迄ここぞとばかり突いてくるのは自分自身の立場の自覚もなく、相手方の妻やその里の親達の口車に乗ってせめたてて来るのこそ親不孝者でこんな子であるからこそ高田家を継がせたくない所以です。妾を家に入れたいために相手方らに出て行けと言ったと申していますが申立人は皆目入れる気はなく本人も入りたくないと、はっきり所信を高田家親族に伝えていますのでこれも又ウソの供述です。

長い年月相手方らと争って来た間に、言って聞かせました。反省の機会も多々与えました。一向に自分の立場を考えようともせず、相手方の妻やその里親に踊らされてただ親の財産だけをねらっている事は顕著に表われています。その心をむき出しにして再婚した妻にとられてなるものかとただそれだけで喰ってかかっている。親に対する温情のかけらもないのに財産はやれません。

裁判所の判断では妻同志の主張で主張自体失当であるとなっていますが、それは不和になった過程の説明で途中の判断で当を得ていません。本筋の調べなくして判断されては誤りです。親を親とも思わない。姑を姑とも思わない。4年有余の過去妻に対して呼びかけもなければ物を言っても返事一つしない。こうした共同生活の態度の固執では生活が荒れていくのは当然です。何故かと聞いた事があります。相手方の心に親の妾問題が根強くあって許せないのだ、と、そしてその妻は夫に比例して夫のままに動くのだと言葉で平気に言えるのですからこんな者達にどうして高田家を相続させ一切をまかす事が出来ましょう。申立人の代でこのけじめをはっきりさせておかないと争い不和は永遠に続きます。申立人は正しい目で相手方らを見て来て相続を廃除しようと決心したものです。適任者でないと断を下したのです。相手らのすべてにウンの多い証言から押してもその人間像が判る筈です。よく再調査の上判断頂きたいと思います。

昭和60年11月12日

金沢市○町×丁目××-×××

高田広明

高田加夜子

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